忙しくて、更新する余裕が無かった。
生きている事に何にも疑問を抱かずに生きている人々も多い。
ある意味、それが1番良いのだろう。
但し、戦争というものは、それでは無くなる事は、限り無く不可能に近い状態という事であろう。
さて、疑問を抱いた人々。
何かを、意味を求めて、様々な事を悩み、考える事になろう。
そんな人々の中に、仏教に帰依する人々がいる。
その中の一部の人に、欝病の人々がいる。
果たして、欝病に罹患してからなのか、教えを学んでからなのか、些か気になるところではあるが、とりあえず、仏教という宗教に内包される宗派の一つの論理的な教えに関し、驚く程理解している者がいる。
しかし、欝病は改善していない人がいる。
このような人は、内観や内省といった、仏教の根本的、行いや感受、を経ずに思考だけが先行し、自らの行いを戒める事も出来ず、カオスの揺れを増幅させて、静ではなく、動の状態からパラドックスに陥り、益々抜けられない状態を生み出しているようにしか思えない。
そして、特徴として、自らの知識の発表が好きであり、攻撃的であったり、排他的である人が多い。
仏教の受容力や、穏やかなる平安な意識に身を置く方向とは、全く相反する行いではないかと思う訳である。
釈迦は、そうなってしまわぬように、段階的に教えを自分のモノにしていない人には述べさせない。
教えない、という繊細にバランス感覚を危険性から防ごうと為していた人ではなかっただろうか?
本来ならば、釈迦やその他の開祖等が教えを説いたものは、その本人の感覚世界だけのモノであり、それより、自らが、自らの感覚で、一つ一つの事物に対し、理を得る事が重要であり、論理や教えは、学ぶとしても、参考程度にするべきだと思う。
まずは、座禅や寝禅、静坐し、何かを掴むまで、論理も何も必要ではないのだと思うのだが。
でないと、逆に執着し、盲目となり、悪化の一途を辿る事になるだろう。
結局、柔軟性や、適応性の乏しい、固執した視野の狭い状態に陥り、自らが苦しむ事となると危惧致しております。
今日はこんなところで。
生きている事に何にも疑問を抱かずに生きている人々も多い。
ある意味、それが1番良いのだろう。
但し、戦争というものは、それでは無くなる事は、限り無く不可能に近い状態という事であろう。
さて、疑問を抱いた人々。
何かを、意味を求めて、様々な事を悩み、考える事になろう。
そんな人々の中に、仏教に帰依する人々がいる。
その中の一部の人に、欝病の人々がいる。
果たして、欝病に罹患してからなのか、教えを学んでからなのか、些か気になるところではあるが、とりあえず、仏教という宗教に内包される宗派の一つの論理的な教えに関し、驚く程理解している者がいる。
しかし、欝病は改善していない人がいる。
このような人は、内観や内省といった、仏教の根本的、行いや感受、を経ずに思考だけが先行し、自らの行いを戒める事も出来ず、カオスの揺れを増幅させて、静ではなく、動の状態からパラドックスに陥り、益々抜けられない状態を生み出しているようにしか思えない。
そして、特徴として、自らの知識の発表が好きであり、攻撃的であったり、排他的である人が多い。
仏教の受容力や、穏やかなる平安な意識に身を置く方向とは、全く相反する行いではないかと思う訳である。
釈迦は、そうなってしまわぬように、段階的に教えを自分のモノにしていない人には述べさせない。
教えない、という繊細にバランス感覚を危険性から防ごうと為していた人ではなかっただろうか?
本来ならば、釈迦やその他の開祖等が教えを説いたものは、その本人の感覚世界だけのモノであり、それより、自らが、自らの感覚で、一つ一つの事物に対し、理を得る事が重要であり、論理や教えは、学ぶとしても、参考程度にするべきだと思う。
まずは、座禅や寝禅、静坐し、何かを掴むまで、論理も何も必要ではないのだと思うのだが。
でないと、逆に執着し、盲目となり、悪化の一途を辿る事になるだろう。
結局、柔軟性や、適応性の乏しい、固執した視野の狭い状態に陥り、自らが苦しむ事となると危惧致しております。
今日はこんなところで。


